黎明期のマインドコントロールの試み
1950年代から、CIAや米軍はマインドコントロールを目的とした大規模な作戦を開始しました。
時期を同じくして、精神病の患者への治療として、脳深部の電気刺激の研究が開始されました。
これを主導したのはテュレーン大学のロバート・ヒース、イェール大学のホセ・デルガド、ノルウェーのカール・セム=ヤコブセンの3人の医師でした。
彼らは後に、治療を名目にして、実際は政府のためにマインドコントロールの実験を行っていたとして、人々から糾弾されました。
1960年代、ボストンで脳外科手術によって暴力的傾向のある個人の行動を修正するというプロジェクトが開始されました。
このプロジェクトの一環で脳外科手術を受けさせられたある患者は、電極を脳内に埋め込まれて遠隔から気分や行動を操作されていると主張していました。
目次All_Pages
政府のマインドコントロール作戦
CIA
1950年、CIAはブルーバード計画と呼ばれるマインドコントロール作戦を開始しました。(United States Senate 1977, Scheflin and Opton 1978, Davison 2009)
これは非倫理的かつ違法な作戦で、覚書には、当局が「発言を誘発する目的で、抵抗する被験者に密かに薬物を経口投与する」実験を行うべきである、と記されていました。
翌年にはCIAは他の政府機関との連携を模索し、マインドコントロール研究を陸軍、海軍、空軍と協業して行う取り組みが合意され、作戦はアーティチョーク計画と改名されました。
この計画のミッションは次のように述べられました。
- 本人の意志に反し、また知られることなく個人の情報を取得するあらゆる方法の評価と開発。
- 上記の手段が我々に用いられた場合、どう対抗できるか?
- 我々は、本人の意志に反し、さらには自己保存といった自然の基本法則に反してさえも、我々の命令に従わせるほどに個人をコントロールすることができるか?(強調追加)
- 仮にこのような手段が我々に用いられた場合、いったいどのようにして我々は対抗できるのだろうか?
翌年の1953年には、アーティチョーク計画はMKウルトラ計画として知られる、より大規模な作戦へと発展しました。
この計画は149のサブプロジェクトから構成され、80の機関が関与していました。
研究は、そのほとんどが外部委託されたもので、産業施設、学術機関、病院、政府研究施設、州・連邦刑務所や精神保健施設で実施されました。
米国国民の自由、権利、健康、安全は無視され、男性、女性、子供、囚人、精神病患者、犯罪者、統合失調症患者、高齢者、さらには末期癌患者までもが利用されました。
MKウルトラ計画では、LSDを含む150種類以上の化学物質がテストされ、行動への影響が調べられました。
薬物の他、放射線、催眠術、電気ショック、ポリグラフ、心理学、精神医学、生物兵器、超感覚知覚、嫌がらせ技術、脳電気刺激、マイクロ波など、多岐に渡るカテゴリの研究が実施されました。
MKウルトラ計画の資料の大部分は1973年に破棄されてしまったため、この作戦がどれほど大規模で、実際に何が成し遂げられていたのか、その全貌をつかむことは今でも困難です。
米軍、NSA
CIAはマインドコントロールの手法を研究していたアメリカ政府の唯一の機関ではありませんでした。(United States Senate 1977, Scheflin and Opton 1978)
米軍の諜報機関は、人間の行動を変えるための研究プログラムを1940年代後半から1950年代前半に独自に開始しました。
このような作戦において、当初は軍とCIAは協力していたものの、管轄権の対立から、相互の情報交換の精神は消え去っていきました。
記録されている米軍の作戦には、海軍によるプロジェクトCHATTER、陸軍とCIAが共同で実施したMKNAOMI計画、および陸軍によるエッジウッド兵器廠での人体実験があります。
陸軍化学部隊は、1955年から1975年にかけて、メリーランド州のエッジウッド兵器廠で約6,720人の米軍人を対象に薬物が人体に与える影響を調べる実験を行いました。(National Research Council 1982)
使用された薬物にはLSD、サリン、マスタードガス、BZガスなど有害な物質が多く含まれていました。
兵士たちは自ら志願したと言われているものの、これが非倫理的な人体実験であることは明らかにでした。彼らは薬物の性質どころか薬物が関与していることすら知らされていませんでした。例えば懇親会と装い、密かにLSDが飲み物に混入されました。(Scheflin and Opton 1978)
CIAのマインドコントロール作戦に比べて米軍のものは記録が少ないため、その全貌をつかむのはさらに困難です。
ウォルター・ボワートは独自に政府のマインドコントロール作戦を調査し、317ページに渡る報告書として、著作「マインドコントロール作戦」を出版しました。(Bowart 1978)
彼の調査結果は第一章の冒頭に簡潔にまとめられています。
「CIAによる薬物実験は、米国政府の極秘マインドコントロール計画の一部に過ぎなかった。この計画は35年にわたり、数万人が参加した。催眠術、麻薬催眠、脳電気刺激、超音波、マイクロ波、低周波音による行動への影響、嫌悪療法などの行動修正療法といった技術が用いられた。実際、個人と大衆全体の記憶と意志を制御する手段を模索する中で、人間の行動制御に関するあらゆる側面が研究の対象となった。」
この本の中に、ある退役した米軍の高級将校の弁として、政府のマインドコントロール作戦を推進する主体はCIAではなく軍諜報部 (NSA) にあったとする、興味深い描写があります。(Bowart 1978)
彼はCIAはNSAの数多くの悪事をおしつけるための身代わりにすぎないとさえ言いました。
「…… 現実を見るんだ。この国はペンタゴンに支配されているんだ。この国の主要な決定はぜんぶ軍によって行われているんだ。これは、私が秘密活動を現場で見てきたから言えることだ。
CIAは単なる身代わりだ。暗殺部隊を擁しているのはNSA [国家安全保障局] の方だ。彼らの記録を調べても何も見つからない。彼らの予算を調べても何も見つからない。……
CIAは単なる飾り物に過ぎない。彼らはFBIのように世界規模で活動している。彼らは会計士であり、弁護士であり、書類係であり、学生だ。彼らは情報収集家だ。彼らはとんでもない悪事を数多く働いてきた、それは否定しない。だが諜報能力という点ではNSAの方がはるかに、はるかに優れている——『黒魔術』の分野では、はるかに進んでいる。
NSAのやったことはCIAのせいにされる。NSAの作戦ははるかに残忍で、はるかに完成度が高い。アメリカ国民はこの事実を知らされていない——知らされるべきでもない。」
実際、CIAのためにマインドコントロールの研究をしていると疑いを掛けられた、人間の脳の電気刺激の研究の第一人者であった3人の医師は、実のところ全員が米軍に協力していました。
疑惑の3人の医師
埋め込み電極による人間の脳深部の電気刺激、現在でいうところの脳深部刺激 (DBS) は、1950年代に精神病の患者で最初に行われました。(Hariz et al. 2010)
これにまつわる主要人物は、テュレーン大学のロバート・ヒース、スペインからイェール大学に移籍したホセ・デルガド、メイヨ―・クリニックで研修を受けたノルウェーのカール・セム=ヤコブセンの3人です。
彼らは1950年代前半からそれぞれ独立して研究を開始しましたが、3人とも全員が精神病院を舞台に、患者の脳深部に多数の電極を埋め込み、電気刺激が行動に及ぼす影響を研究していました。
また統合失調症の患者が主な被験者であったという奇妙な共通点もありました。
注目すべきは、3人の医師全員が、脳電気刺激の研究を通じて、政府のマインドコントロール作戦に協力していたとの疑いを人々から掛けられていたことです。
CIAや米軍のマインドコントロール作戦と、彼らの脳電気刺激の研究が、ほぼ同時期に始められたというのも、この疑惑を強めるものです。
上述したように、実際にこの3人の医師全員が米軍に協力していたという証拠があります。
ロバ―ト・ヒース
ヒースの来歴
コロンビア大学の精神科医ロバート・ヒースは、1949年、完全な研究の自由を求めてテューレーン大学に移籍し、精神・神経学部を新設しました。(O’Neal et al. 2017)
それから30年に渡って約100人の患者を対象に脳の電気刺激の人体実験を行いました。(Baumeister 2000)
被験者は統合失調症の患者が主体でしたが、他にてんかん患者や疼痛患者も含まれていました。
実験用の患者は、州との取り決めによって、主に東ルイジアナ州立病院に特別にあてがわれた病棟から調達されました。(Scheflin and Opton 1978)
時折、ルイジアナ州刑務所やニューオーリンズのチャリティ病院からも患者を獲得しました。
これらの患者たちは、本人の意志に反して連れてこられたケースが多かったようです。(Rushton 1974)
例えば、ある同性愛者の男性 (B-19) は麻薬の容疑で逮捕され、容疑の取り下げの代わりにニューオーリンズのチャリティ病院に入院することに同意しました
しかし後に本人やセラピストの抗議に反して彼はテュレーン大学に移送され、脳電気刺激による同性愛転向実験を受けさせられました。
ヒースはまた、ニューオーリンズの人権団体から「CHNO (ニューオーリンズのチャリティ病院) の病棟看護師が、犠牲者を探しているヒースの手下から女性患者を隠している」と非難されました。
通常電極の埋め込みには、切開が最低限で、3次元座標系を使用して脳内の小さな標的を定める、定位固定法が用いられます。
しかし最初の19人の患者に電極を埋め込むために使用した手順は、開頭して目視で直接電極を埋め込むという方法でした。(Baumeister 2000)
この粗雑な処置によって、4人が発作を起こし、6人が感染症を発症し、3人がその他の神経学的な後遺症を示し、1人が急性心不全になり、2人が脳の感染症に関連した原因で死亡しました。
ほとんどの研究者は1人の患者に数週間程度、わずかな電極のみを埋め込みますが、ヒースは1人の患者に2年から3年の期間にわたって、最大で125個もの電極を埋め込みました。(Heath 1971, Scheflin and Opton 1978)
マインドコントロールの疑惑
大衆からの反発
ヒースは脳の電気刺激で被験者に激怒、恐怖、快楽、欲求などを誘発し、気分や行動を変化させる多数の人体実験を手掛けました。
何人かの研究者は、これらの実験はMKウルトラ計画の下でCIAから資金提供を受けたと推測しています。(O’Neal et al. 2017)
ヒースはCIA職員から政府の研究を行うよう依頼されたことは認めたものの、患者の治療に関心があったため断ったと主張しました。
公に否定したにもかかわらず、ヒース、ひいてはテュレーン大学が政府の研究に関与した疑いでスキャンダルが巻き起こりました。
テュレーン大学の学生や一般大衆は、政府が精神病の治療を口実に、マインドコントロールの実験を行っているとして憤慨しました。
ニューオーリンズの人権団体は、罪無き患者や囚人がヒースの実験による虐待を受けているとして非難し、ヒースの学会発表に合わせて抗議活動を行いました。(Rushton 1974)
米軍との関わり
上述の通り、アメリカ陸軍はメリーランド州のエッジウッド兵器廠で自軍兵士を使った非倫理的な人体実験を実施していました。
1954年3月、ヒースはエッジウッド兵器廠の医療研究所で開催されたセミナーで主要講演者を務めました。(Mohr and Gordonang 2001)
彼の主題は「人間の脳における電気刺激と記録のいくつかの側面」でした。
それから数か月もしないうちに、テュレーン大学は神経・精神学部への「施設セキュリティ認可」を陸軍に与えました。
つまり米軍はヒースの研究施設に自由に往来できるようになったということで、ヒースが軍に協力して人体実験を行ったり、未発表の実験データを軍に供与していたりした可能性が浮上しました。
また1957年、ヒースはLSDやメスカリンなどの幻覚剤を患者に投与して行動や脳深部の電気活動への影響を調べる実験を行いました。(Monroe et al. 1957)
後に、この実験は米陸軍との契約により実施されたものであったことが明らかになりました。(Mohr and Gordonang 2001)
議会への召喚
ヒースの倫理的行為が疑問視され、1973年にテッド・ケネディ上院議員が率いる米国上院の小委員会に召喚されました。(United States Senate 1973, O’Neal et al. 2017)
委員会において、ヒースは「『マインドコントロール』について懸念の声が頻繁に聞かれます」と述べ、人々から疑惑の目で見られていることを認めました。
しかし「確かに、脳研究の可能性は広大で素晴らしいものです。しかし、それが暗黒時代を招く理由にはなりません。」と続け、脳操作技術の危険性を軽視した発言をしました。
続けてヒースは、脳の電気刺激で患者に怒りや快楽を引き起こした実験は、治療の一環であったと釈明しました。
しかしケネディ議員は「あなたが実際に言っていることは、行動を操作することです」「これは行動操作です」と述べ、ヒースの実験がマインドコントロールの試みに該当することを指摘しました。
さらに「この技術は、他の人、つまり正常な人々にも応用できるのではないでしょうか?」、「大衆への応用を懸念すべきではないでしょうか?」と述べ、国民の大量操作に悪用されることへの懸念を表明し、ヒースへの質疑を終えました。
これは半世紀以上も前の昔の話ですが、現代よりもマインドコントロール技術の危険性が公に認知され、真剣に議論されていたというのも皮肉なことです。
今の時代に政府による大衆マインドコントロールの疑惑があると伝えても、ほとんどの人は一瞥もくれずに陰謀論として退けてしまうことでしょう。
ホセ・デルガド
デルガドの来歴
スペインの神経生理学者デルガドは、1950年に米国に移住してイェール大学の職に就きました。(Horgan 2005, Blackwell 2014)
その後20年間、デルガドはロードアイランド州にある今は廃墟となった精神病院で、統合失調症やてんかん患者を中心とした25人の患者を対象に、脳電気刺激の人体実験を行いました
しかしデルガドは人間よりは、サルや他の動物を対象にして広範な研究を行い、特に攻撃性の抑制に焦点を当てていました。
ヒースが快楽中枢である中隔野の電気刺激を好んで行ったように、デルガドは抑制中枢と呼べるであろう尾状核の電気刺激を好んで行いました。
彼はスティモシーバと呼ばれる無線送信機からの遠隔操作が可能な、埋め込み型の脳刺激装置を発明しました。
スティモシーバはネコ、サル、チンパンジー、テナガザル、雄牛、さらには人間に埋め込まれ、離れたところから被験者の気分と行動を操作できることを示しました。
つまりスティモシーバは現代の脳チップの原形のような存在でした。
マインドコントロールの疑惑
米軍との関わり
デルガドのサルの群れを対象にした社会的行動の研究は、人間社会におけるマインドコントロールについての憶測を呼び起こしました。(Blackwell 2014)
またデルガドもヒース同様、CIAのマインドコントロール研究に関与していると疑われました。
しかし実のところ、デルガドの研究資金の多くは海軍と空軍から提供されていました。(Scheflin and Opton 1978)
空軍と協力して実施した有名なものに、チンパンジーの脳を遠隔操作して無気力化させた実験があります。(6ページ目「抑制」参照)
この実験ではチンパンジーの脳にスティモシーバを埋め込み、無線で取得した扁桃体の脳波をコンピューターで解析しました。興奮状態が検知されると自動的に網様体への刺激信号を送信し、痛覚を発生させました。
チンパンジーは数日すると何に対しても興奮を示さない、無気力な状態になってしまった一方で、与えられた課題の成績は落ちませんでした。
これを人間に応用すれば、反抗する意図を頭に巡らせただけで脳内に痛み信号を発生させて罰することも可能になるといえ、まさに大衆の行動制御を目的とした実験だったと疑われても仕方ないと思います。
物理的マインドコントロール
デルガドは1970年に「物理的マインドコントロール」という非常に物議を醸しだした本を出版しました。(Delgado 1970)
彼はこの著作で、脳の電気刺激を使った、人間に作られた計画と機器による、人間の完全な行動制御という、壮大な野心をむき出しにしました。(179頁)
そして「人間の心の征服」を目的とした、NASAのような大規模な国家機関の設立を提言しました。(259頁)
デルガドはこのような技術で「未来の精神的に文明化された人間、より残酷さが少なく、より幸福で、より善良な人間」が開発できるとしました。(232頁)
しかし私には、人間を独裁者に都合の良い、攻撃性を失った家畜のような存在に作り替えたいと言っているようにしか聞こえません。
実際、この本は以下のように、独裁主義的あるいは全体主義的なプロパガンダとも言える主張が目につきます。(219~220頁、250~253頁)
- 人工抑制のために水道水へ不妊剤を混入する計画がある。
- 現代の貧民街にいる自由な黒人よりも、奴隷の方が幸せだった。
- 独裁国家の国民は、民主主義国家の国民と同じくらい幸せである。
- 新生児の人権を否定し、政府管理下の「知的計画」による乳児期からの精神構造の改変を奨励する。
1972年、この本をもってして、精神科医ピーター・ブレギン博士は、デルガドは「テクノロジー的全体主義の偉大な弁護者であり、個人の自立性、独立性、自由、そして独立宣言で宣言された人間の『奪うことのできない権利』の原則を公然と攻撃している」と激しく糾弾しました。(Breggin 1982)
スティモシーバ植え込み疑惑
1970年代、デルガドは見知らぬ人々から、デルガドが密かに脳にスティモシーバを植え込んだと非難を受け始めました。(Horgan 2005)
この主張をしたある女性は、デルガドとイェール大学を相手に100万ドルの訴訟を起こしましたが、デルガドは一度も会ったことはありませんでした。
しかし、スティモシーバーが密かに埋め込まれていたと疑うに十分な根拠がある症例もあります。(下記の「ボストン暴力プロジェクト」参照)
この症例を手掛けていた研究者はデルガドと共同研究を行っていて、デルガドからスティモシーバの供与を受けていました。
こうした疑惑が渦巻く中、デルガドはマドリード自治大学の医学部長職のオファーを受け入れ、1974年にスペインに帰国しました。
電磁波による脳の遠隔操作
スペインでデルガドは、電極埋め込みを必要としない、電磁波による脳の遠隔操作に研究の焦点を移しました。
彼は経頭蓋磁気刺激法 (TMS) などの現代技術を先取りし、特定の神経領域に電磁パルスを送ることができる光輪のような装置とヘルメットを発明しました。(Horgan 2005)
デルガドは動物と人間の両方で装置をテストし、眠気や興奮、その他の状態を誘発することに成功しました。

電磁波照射で眠りに落ちたサル (MCAULIFFE 1985)
カール・セム=ヤコブセン
セム=ヤコブセンの来歴
ノルウェーの開業医カール・セム=ヤコブセンは、第二次世界大戦中のナチス占領軍に対する地下抵抗運動に参加しました。(Dietrichs 2022)
戦争末期にはナチスに捕まるのを避けるために、中立国スウェーデンに逃げました。
そこで彼はアメリカ人将校と出会い、アメリカ特殊部隊の大尉として採用され、北ノルウェーの解放に参加しました。
同時に彼はCIAの前身である戦略諜報局で働いていました。
戦後、セム=ヤコブセンはアメリカに渡り、今は廃墟となったミネソタ州のロチェスター州立病院とメイヨー・クリニックに赴き、精神医学の研修を受けました。
当時、メイヨー・クリニックのスタッフはロチェスター州立病院に赴き、精神病患者を対象に数多くのロボトミー手術を手掛けていました。 (Scheitler and Wijdicks 2024)
そこで彼は埋め込み電極を使った、人間の脳深部の記録と電気刺激の研究に参加しました。(Dietrichs 2022)
ノルウェーに戻ったセム=ヤコブセンは、1956年、オスロの精神病院に独自の神経生理学研究所を設立しました。
その資金の大部分は米軍とNASAから提供されました。
彼は1976年までに、220人の主に統合失調症とパーキンソン病の患者を対象に、脳の電気刺激の人体実験を実施しました 。(Sem-Jacobsen 1968, Sem-Jacobsen 1976)
最初の100人はミネソタ州のロチェスターで研究され、最後の120人はノルウェーで研究されました。
ノルウェーでは、精神病院で働いていたにもかかわらず、セム・ヤコブセンはパーキンソン病に焦点を当てていました。
マインドコントロールの疑惑
三者の共通点
ヒースとデルガド、そしてセム=ヤコブセンは、脳深部刺激の黎明期において非倫理的な人体実験を行い物議を醸した人物として、一緒に語られることが多いです。(Hariz et al. 2010, Breggin 1982, Scheflin and Opton 1978)
興味深い点は、セム=ヤコブセン自身が、ヒースとデルガドの研究グループを名指しして自らのものと同列に語っていることです。 (Sem-Jacobsen 1968)
「これら3つのセンターは独立して研究を進めましたが、基本的な目的は同じでした。それは、実際の手術前に組織の電気的活動を研究することにより、精神外科手術 (ロボトミー) を改善することでした。」
「これらの技術はすべて、初期の動物実験から発展して開発されたものですが、最終的な改良点においては驚くほど類似していました。」
また彼はヒースと同様に、幻覚剤 (LSD、メスカリン、アドレノクロム) を患者に投与して、脳深部の電気的変化を調査するという人体実験を行いました。(SCHWARZ 1956)
米軍との関わり
セム=ヤコブセンは、脳の電気刺激によって人間に極めて多彩な反応が生じ、人間の気分と行動を操作できることを実証しました。 (Sem-Jacobsen 1968)
彼の研究所は米軍から特別に資金提供を受けていたため、彼が秘密裏にマインドコントロールの実験を行っているという噂がすぐに広まり始めました。(Dietrichs 2022)
第二次世界大戦中に彼はCIA長官と面会し、個人的にも知り合いだったため、彼がCIAのために働いているという噂も広まりました。
家族はセム=ヤコブセンの個人文書を全て焼却してしまっていました。
ノルウェー当局も陰謀に加担し、セム=ヤコブセンのマインドコントロール実験を支援していたとする疑惑も浮上しました。
2000年にはこれらの疑惑に関するドキュメンタリーがノルウェーで全国放送されました。
この番組は報道分野で数々の賞を受賞したジャーナリストのゲルハルト・ヘルスコグ氏によって製作され、以下のような主張がなされました。(Bull et al. 2003)
- 望み無き人々の頭蓋が開けられた。治療を受けるためではなく、彼らは不本意に、あるいは知らないうちに、行動制御の実験に引き込まれたのだ。このような実験は、おそらく科学史上類を見ないものだ。
- ノルウェー人が使用された理由も同様に驚くべきものだった。ノルウェーでは患者の権利が極めて弱かったため、米当局は実験にノルウェー人を使用した場合、米国民を使用した場合よりも法的問題に巻き込まれるリスクが少なかったのだ。
- ノルウェーでは、西側諸国の他の地域では動物実験のみが行われていた実験を人間に対して行ったほどだった。
- アメリカから送金された資金は、通貨規制に違反して外国の口座に預けられた。ゲルハルトセン政権は、この研究の条件整備に積極的な役割を果たした。
- ノルウェー軍とのつながりは衝撃的なものであった。
- 繰り返しになるが、実験から利益を得たのはCIAであったようだ。
重大な疑惑を受けて、ノルウェー政府は2001年に、1945年から1975年の間にノルウェーで非倫理的な医学実験が人間に対して行われたかどうかを調査するための特別委員会を任命しました。
米軍の関与はすでに知られていましたが、セム=ヤコブセンが米軍のすべての部門から支援を受けており、米軍と数多くの契約を結んでいたことがわかりました。(Bull et al. 2003)
各契約文書には、セム=ヤコブセンが提出した最終報告書への参照がありましたが、これらの最終報告書は米国で機密化されており、ノルウェー委員会はアクセスできませんでした。
一方、セム・ヤコブセンがCIAから支援や資金提供を受けていたという疑惑を裏付ける文書は見つかりませんでした。(Bull et al. 2003)
つまり、脳電気刺激の研究をCIAではなく米軍に協力して行っていたという、ヒースやデルガドと同じパターンが明らかになりました。
非倫理的な人体実験
彼はヒースと同様に、患者の脳のあらゆる領域に電極を埋め込み電気刺激を行いましたが、これが治療に役立つという根拠は一切提示されませんでした。 (Sem-Jacobsen 1968)
しかし委員会は、セム=ヤコブセンの実験が治療の枠組みを超えていたことを認めつつも、非倫理的な人体実験であったとは認定しませんでした。(Bull et al. 2003)
「調査の結果、患者は電極を埋め込んだ後、治療に必要な範囲を超えて、より広範囲にわたる記録や刺激を受けていた可能性があることが明らかになった。 (例えば、電極の配置やマッピングの時間など)」
「しかしながら、委員会は、このデータが個々の患者の治療を改善するためにも活用できることから、患者の最善の利益を犠牲にしていたことを示す状況は発見してない。」
セム=ヤコブセンが脳電気刺激により患者から引き出した反応は、恐怖、不安、鬱状態、怒り、多幸感、性的快楽、オーガズム、振戦開始、振戦停止、意識障害、錯乱、眠気、覚醒、幻視、幻聴、幻臭、幻味、痛覚、皮膚感覚、温感、冷感、前庭感覚、発話障害、筋収縮、運動、無呼吸、不整脈、発汗、吐き気、嘔吐、尿意、などと極めて多岐に渡ります。 (Sem-Jacobsen 1968)
このうちパーキンソン病の患者の治療に役に立つといえるのは「振戦開始、振戦停止」ぐらいでしょうが、彼はこれ以外の治療には無関係の反応もカテゴリごとに分類し、詳しく分析しています。
私はこれが「個々の患者の治療を改善するために使用」できるとは到底思えません。
またこれらの反応を誘発するため、患者は治療上必要のない電極を脳に差し込まれ、脳出血や麻痺、死亡などの重篤なリスクに曝されました。
私はこれは「患者の最善の利益を犠牲にして」行われたと思います。
フランク・アービンとバーノン・マーク
ボストン暴力プロジェクト
1960年代、増加する暴力犯罪を背景に、暴力行為とその対策としての精神外科手術を研究する「ボストン暴力プロジェクト」が開始されました。(Casey 2015, Breggin 1973, Scheflin and Opton 1978)
このプロジェクトは政府が後援し、司法省や国立精神衛生研究所などから多額の連邦資金を獲得しました。
このプロジェクトを委託されたのは、ボストンのハーバード大学の脳神経外科医フランク・アービンと同大学の精神科医バーノン・マーク、そして彼らの同僚の脳神経外科医ウィリアム・スウィートの3人でした。
アービンとマークは著書「暴力と脳」の中で、暴力行動に対する恒久的な解決策として、暴力的な傾向のある個人の脳の一部を破壊することを提案しました。
スウィートは潜在的な犯罪者を特定する測定基準を確立するための、資金援助を訴えました。
具体的には、暴力的な個人を対象に、扁桃体などの大脳辺縁系の神経学的な異常をスクリーニングすることを提案しました。
彼らは脳の機能不全を「放火、狙撃、暴行」と関連づけ、「暴動のリーダーたちは脳の病気なのかもしれない」とさえ示唆しました。
彼らのこのような提案は世間からの猛反発を受けました。
市民リバタリアン、公民権運動家、コミュニティ活動家、反精神医学運動の指導者、および一部の米国下院議員らは、暴力犯罪を口実に、反対する人々を抑圧するための政治計画を推進しているとして、これらの医師や政府機関を一斉に非難しました。
反対運動はかなりの勢いを得て、ボストン暴力事件プロジェクトは中止されました。(Breggin 1982)
マーク、アービン、スウィートは、政治的な舞台での精神外科手術の有効性について、当初の主張を修正せざるを得ませんでした。
マインドコントロールの疑惑
暴力行動の誘発実験
ボストン暴力プロジェクトの一環で、アービンとマークは、マサチューセッツ総合病院で暴力行動を患う多数の患者を研究していました。(Mark and Ervin 1970, Scheflin and Opton 1978)
しかし、この暴力行動の研究のために入院した35人の患者のほとんどは、実際にはそれほど暴力的ではありませんでした。
そのほとんどは、行儀の悪い10代の若者か、自分の思い通りにならないと癇癪を起こす程度のてんかん患者でした。
暴力行動を精神外科手術によって抑えるというのがボストン暴力プロジェクトのコンセプトで、具体的には患者に内側扁桃体の破壊術が適用されました。
その術前には脳電気刺激の実験も行われ、彼らの有名な患者ジュリア・P 氏とトーマス・R 氏に関してはその記録が残っています。(2ページ目「激怒」参照)
双方の被験者の扁桃体の内側領域を電気刺激すると、暴力行動が誘発されることが示されました。
彼らはデルガドからスティモシーバを供与されていたため、無線送信機を使って遠隔から被験者に暴力行動を誘発する試みも行われました。
彼らの報告によれば、その後に行われた内側扁桃体の破壊術によって、ジュリアさんとトーマスさんの暴力行動は鎮静した、ということになっています。
ブレギン博士の告発
患者を心配する家族や病棟の看護師から手紙を受け取ったハーバード大卒の精神科医ピーター・ブレギン博士は、独自にボストン暴力プロジェクトに関して調査を開始しました。(Breggin 1973, Breggin 1973)
するとジュリアさん、トーマスさんの両名に関する報告が不完全で虚偽があること、特にトーマスさんに対して極めて非人道的な処置が行われたことを発見しました。
ジュリアさんに関しては、暴力行動が鎮静したということになっていましたが、実際のところ手術後も彼女の衝動的な行動は消えていませんでした。
彼女は衰弱し始めて、ますます落ち込み、自殺を考えるようになりました。
病棟の看護師からの手紙には次のようにありました。
「彼 (マーク医師) は電極を数個埋め込み、彼女の側頭葉の一部を「焼き尽くす」作業を進めました。唯一の問題は、彼女の衝動的な行動が消えず、私の目の前で彼女が衰弱し始めたことでした……彼女は素晴らしいギター演奏をやめました。彼女は長い知的な議論に参加したがらなくなりました。彼女はますます落ち込みました。自殺願望も……暴動の頃のライフ誌で、精神外科手術の「前と後」の人物の例として彼女の写真を見たことがあります。その記事では、その後の彼女の衰弱や深刻な精神的苦痛については一切触れられていませんでした。」
博士はその後の関係者とのインタビューで、出版物の印象とは反対に、彼女は慢性的に入院したままであるということを突き止めました。
トーマスさんに関しても、博士は病院の数多くの医療記録を精査し、本人やその家族、関係する専門家に聞き取り調査を行いました。
すると出版物の説明とは反対に、彼は手術前は暴力的な人物ではなく、暴力的な事件はすべて手術後に起きていた事を突き止めました。
手術前、退役軍人のトーマスさんは優秀な技術者として働いており、精神病の症状を伴わない軽度の障害を指す「人格パターン障害」以上に深刻な精神疾患の診断を受けたことはありませんでした。
マークとアービンは著作でトーマスさんを「暴力的な」男として描写し、妻、子供、同僚に対して「深刻な暴行」を働いたとしていますが、そのような事実は確認されませんでした。
手術後、彼は頻繁に暴力的になり、鎮静剤、閉鎖病棟、さらには拘束具を必要とするようになりました。
退院後、トーマスさんは母親に引き取られ、彼女と共に西海岸へ戻りました。母親は、彼がその時、病弱で青白く、衰弱していたと述べました。
間もなく、彼は混乱しすぎて身の回りのこともできなくなっていることが明らかになり、隣町で警察に保護されました。そして数か月後、彼は西海岸の退役軍人病院に入院しました。人生で初めての精神科入院でした。
彼は幻覚、妄想、混乱状態に陥っており、「統合失調症反応、妄想型」と診断されました。
彼の主張は、マサチューセッツ総合病院の医師たちが彼の脳に電極を埋め込み、彼の気分や行動を遠隔操作している、というものでした。
しかし患者がスティモシーバを使って遠隔から暴力行動を誘発する実験に参加させられていた事実を鑑みるに、この主張には正当な根拠があります。
また、トーマスさんに適用された内側扁桃体の破壊術は攻撃性を抑制することを期待して行われるため、この手術後に攻撃性が増大したというのは説明がつきません。しかし実はこの領域の電気刺激を受けていたとするならば、説明がつきます。
ブレギン博士も以下のように、患者の主張を妄想と片付けてしまうことに懐疑的な目をむけています。(Breggin 1994)
「トーマスは生まれつき『狂っている』のか、それとも医師たちが遠隔操作実験を含む脳への刺激と溶解によって彼を狂わせたのか?推測する必要はない。1971年にメイン州バーハーバーで開催された会議で発表された論文で、マーク、アービン、スウィートは、トーマスの脳に2度目の精神外科的損傷を与えた後の反応について記述している。トーマスは『 (遠隔脳刺激に関する) 妄想』を発症したため、抗精神病薬の服用が必要となった。スティモシーバ実験を考慮すると、この文脈における『妄想』という言葉の使用は深刻な誤解を招く。
前述の通り、最初の退役軍人病院への入院時、トーマスは身体的には正常に見えたにもかかわらず、『麻痺している』と語っていた。このような奇妙な考えはどこから来たのか? アービン、マーク、そしてオレゴン州の神経科医ジャニス・スティーブンスによる1969年の論文では、トーマスの様々な刺激部位に対する反応が図表に示されている。その中には、『すべてが消え去り、麻痺した』ように感じた部位も含まれている。別の刺激を受けた際、彼は『誰かが私を操って、私の手足を動かしている (実際の動作は無い) 』と語った。」
博士はこの疑念を「彼の妄想における、真実の核心」という言葉で表現し、トーマスさんの肩をもちました。
治療による後遺症は、推定されるものでは部分的な失明、記憶障害、意識消失、錯乱、より明らかなものでは慢性精神病、長期入院、完全障害などがありました。
その後、退役軍人省からは「完全障害」、裁判所からは「無能力者」と宣告され、手術前は評判に違わぬ働きぶりを見せ、かつては優秀であったこの技術者は、母親の保護下に置かれてしまいました。
最終的に、マークとアービンに対して医療過誤とインフォームド・コンセントの欠如を理由とする200万ドルの訴訟が起こされました。(Rushton 1974)
以下にブレギン博士のトーマスさんの調査報告書の全文を引用します。
トーマス・Rの精神外科手術 追跡調査
序論
これは、全米的に著名な3人の医師による患者を対象とした独立した追跡研究である。3人の医師は、ハーバード大学医学部准教授であり、ボストン市立病院脳神経外科部長のバーノン・マーク医師、ハーバード大学医学部教授であり、マサチューセッツ総合病院脳神経外科部長のウィリアム・スウィート医師、そして元ボストン出身で現在はロサンゼルスのカリフォルニア大学ロサンゼルス校 (UCLA) の精神医学教授であるフランク・アービンである。3人はいずれもボストン神経研究財団の会員であり、同財団を通じて、暴力行動と精神外科手術の研究のために多額の連邦政府資金を獲得している。
彼らは、暴力抑制のための脳外科手術を推進し、また、ゲットー暴動や政治的暗殺といった政治問題と自らの研究や治療法を結びつけることで、大きな注目を集めている。彼らは司法省と国立精神衛生研究所から資金を得ており、近いうちに国立衛生研究所とカリフォルニア刑事司法評議会からもさらなる資金を得るかもしれない (Peter Breggin, 1973)。これらの理由だけでも、彼らの研究を批判的に検証するには十分かもしれない。しかし、おそらくもっと重要なのは、彼らが熱心に推進してきた扁桃体切除術という手術が、バージニア州とミシガン州の州立精神病院の患者やカリフォルニア州の囚人に対する手術の試みなど、近年の公衆にとって非常に重要ないくつかのプロジェクトにおいて、主要な手法として推奨されていることだ。
これらの人々が患者の運命について十分かつ正確に報告していないと初めて気づいたのは、1年以上前、彼らの最も有名な患者であるジュリアの手術前後を知る看護師から長文の手紙を受け取ったときだった。彼女はこう書いている。
「彼 (マーク医師) は電極を数個埋め込み、彼女の側頭葉の一部を「焼き尽くす」作業を進めました。唯一の問題は、彼女の衝動的な行動が消えず、私の目の前で彼女が衰弱し始めたことでした……彼女は素晴らしいギター演奏をやめました。彼女は長い知的な議論に参加したがらなくなりました。彼女はますます落ち込みました。自殺願望も、、、暴動の頃のライフ誌で、精神外科手術の「前と後」の人物の例として彼女の写真を見たことがあります。その記事では、その後の彼女の衰弱や深刻な精神的苦痛については一切触れられていませんでした。」
この看護師へのインタビューで患者の運命が詳しく明らかになり、様々な情報源から、マーク医師から、彼の出版物で伝えられた印象とは反対に、彼女が慢性的に入院しているという自白を得ることができた。
後ほど説明するように、神経科医アーネスト・ロダンは最近、『暴力と脳』の中でマーク、アービン、スウィートがすべての症例で一般大衆と医療関係者を欺いていたという証拠を提示した。しかし最も重要なのは、トーマス・Rの症例で、マーク、アービン、スウィートが手術した患者の完全な追跡調査が初めて実施されたことだ。これには、患者、家族、関係専門家へのインタビューデータ、そして多くの病院記録が含まれている。
トーマス・R.:要約
トーマス・Rは、マーク、アービン、スウィート医師が精神運動てんかんに関連するとされる暴力の治療のために行った脳手術 (扁桃体切除術) の根拠として最も頻繁に引用される患者の一人である。これまで私は、てんかんと暴力との関連という概念を長々と批判してきた (Peter Breggin, 1972 and 1973)。また、最近の論文 (Ernest Rodin, 1973) や、ミシガン州立精神病院における精神外科手術に対する差し止め命令における証言は、この関連は神話であり、精神外科手術を正当化するだけの根拠に過ぎないと強く示唆している。しかしながら、トーマス・R.に関する本評価ではこの問題には触れない。その代わりに、マーク、アービン、スウィートによる手術前後のトーマス・R.の運命に焦点を絞る。とはいえ、トーマス・R.がマイケル・クライトンの小説『ターミナル・マン』に登場するハリー・ベンソンの重要なモデルであったこと、そしてペーパーバック版のあとがきでクライトンが、おそらくマーク、アービン、スウィート各博士によっててんかんと暴力との関連を思い込まされたと苦心して説明していることは、興味深い。
少なくとも3つの資料 (Vernon Mark and Frank Ervin, 1968, 1970; Vernon Mark, William Sweet and Frank Ervin, 1972) において、マーク、アービン、スウィートはトーマス・Rを「暴力的な」男として描写し、妻、子供、同僚、そして路上で出会った自動車運転手に対して「深刻な暴行」を加えたとしている。ある資料 (Vernon Mark and Frank Ervin, 1968) では、彼は妻に対して偏執的だったと述べている。インタビューでは、手術前には精神病を患っていたことを示唆している。3つの資料すべてにおいて、彼は手術以来、一度も激しい怒りを爆発させなかったとされている。どの資料にも、精神病、労働不能、長期入院、精神外科手術への恐怖といった手術の深刻な副作用については言及されていない。1972年の彼らの最新論文では、副作用として挙げられているのは一時的な「インポテンス」のみである。
トーマス・R.の追跡調査は、家族からの依頼から始まった。家族は、彼が手術によって破壊されたと考えていると私に説明してくれた。それ以来、私は手術前後の病院のカルテ、そして手術後6年間のカルテを精査し、家族、患者、マーク、アービン、スウィートに先立って彼を治療していた精神科医、その他関係者にインタビューを行った。現時点では、トーマス・R.が深刻な暴力を振るうようになったのは手術後であり、手術後、彼は完全に障害を負い、慢性的に入院し、マサチューセッツ総合病院で再び手術を受けるという悪夢のような恐怖に苛まれていることを述べれば十分だろう。
トーマス・R.の追跡調査報告
1965年以前、トーマス・R.はマーク、アービン、スウィートが言うように、まさに「優秀なエンジニア」だった。 31歳にして、彼は、部下を統率する技術者として、またランドカメラの特許を持つ発明家として、その実力を証明していた。彼は、様々な頭部外傷や昏睡の結果、精神運動てんかんを発症したようだが、その臨床像は、マーク、アービン、スウィートらが提示した決定的な病像からは程遠い。例えば、彼の精神科医は、彼らの報告 (Peter Breggin, 1973) とは反対に、彼が発作を起こすのを一度も見たことがない。彼が起こした発作が何であれ、脳手術につながる病院での精密検査の4か月前までは、薬で十分に制御されていた。しかし、彼の発作の問題は驚くべきことではなかった。というのも、彼は重度の肺感染症を何度か患い、深刻な夫婦間の問題を抱え、最後には彼を悩ませた小さな自動車事故に遭ったからである。それでも彼は仕事に復帰することができ、病院のカルテには1965年12月まで継続的に勤務していたと記されている。1966年3月11日から始まる一連の診断入院まで、断続的に仕事を続けた。
1965年、トーマスは深刻な夫婦関係の問題を抱え始めた。彼は妻の精神科医を訪ねたところ、トーマスが妻との喧嘩の記憶がほとんどないと主張していることから、妻との喧嘩には器質的な要素がある可能性があると診断された。確かにトーマスの妻は彼を恐れていたが、精神科医は妻への実際の危害は無かったことを覚えている。彼は時折、口論の真っ最中に缶詰の食べ物を妻の危険なほど近くに投げつけていた。精神科医は彼をマサチューセッツ総合病院に紹介し、退役軍人である彼は退役軍人省に送られ、マーク、アービン、スウィート各医師の監督下で徹底的な神経学的検査が開始された。彼らはてんかんに関連するとされる暴力を抑制するための手術プロジェクトを開始しようとしており、積極的に患者を探していた。一方、精神科医はこれらの問題に対処しきれず、この件から手を引いた。それ以降、カルテはほぼ完全に神経学的な方向性を帯びている。
振り返ってみると、精神科医はトーマスがうつ病ではあったが、電気ショックや薬物を必要とするほどではなかったことを覚えている。その記憶は、幻覚、妄想、偏執的な考え、思考障害の兆候を一切報告していない病院記録と完全に一致している。カルテでは、彼の最も深刻な精神医学的診断は「人格パターン障害」であり、これは精神病症状を伴わない軽度の障害を指すものである。
彼の暴力行為については、母親と、最近では妻以外には誰とも関係がないと繰り返し記されています。しかし、母親は情報提供のために同席しておらず、彼女は彼が彼女に対して暴力を振るったことを否定しています。カルテの中で最も詳細な検査結果には、「彼は職場やその他の場所で攻撃的な行動で問題を起こしたことはなく、刑務所や精神病院に入ったこともない」と記されている。 1966年4月5日の病院の記録には、「主に室内に物を投げつけるなどの身体的暴力があったが、誰かを傷つけたことは一度もない」と記されている。1966年3月11日から9月4日までの4回の診断入院において、彼は拘束されたり、閉鎖病棟に強制入院させられたり、いかなる形でも危険人物として扱われたりすることはなかった。ある一連の入院では、彼は退役軍人病院から逃亡し、マサチューセッツ眼科耳鼻咽喉科を受診した。そこでの詳細な検査の結果、彼は精神運動性てんかんを患っているものの、暴力行為に関する深刻な問題はないと結論付けられた。彼は退院後、そこで経過観察を受けることになったが、家族からの圧力により、退役軍人病院に戻り、精神外科手術前の精密検査を受けたようだ。これらすべては、1972年に出版された彼の精神外科医の「暴力的な激怒:これは同僚や友人に向けられることもあったが、主に妻と子供たちに向けられていた」という記述とは著しく対照的である。最も衝撃的なのは、後述するように、彼の初めての深刻な暴力は、マーク、アービン、スウィートが彼を手術しようとした病棟で起きたことだった。
マサチューセッツ総合病院の脳神経外科における彼の経歴の多くは、手紙、母親のメモ、病院の資料、その他の資料から集められたものだ。当初からトーマス・Rは診断手順を「SF」と呼び、母親には説明は控えると手紙に書いていた。しかし、記事や書籍から、彼には脳のほぼ全長に渡る4本の電極が埋め込まれていたことが分かっている。電極は左右に2本ずつ配置されていた。各電極には20本以上の小さな電極が付いており、側頭葉の端から端まで、脳の様々な部位を刺激したり、損傷を与えたりした。
1966年10月21日には最初の損傷が明らかになり、10月28日には、心配した母親が何が起こっているのか調べようと試み始めた。彼女はマーク医師に連絡を取り、プロジェクトから返信の電報を受け取った。息子は「簡単な手術」を受けているとのことだった。電極は、高度に実験的な脳刺激と脳損傷のために、何か月もそのまま留置されることになっていた。彼は母親に、政府の助成金を受けて手術を受けていると手紙で伝えており、これが後に医療入院証明書に記された「彼は自分が政府のモルモットだと主張し、『グループ』の命令ならどこへでも行く、まるでロボットのようだと感じている…」という主張につながったのかもしれない。
トーマスは最初から手術を恐れ、家を飛び出し大陸を横断したこともあった。少なくとも2つの情報源 (本稿の付録に引用) において、マークとアービンは、トーマスが頭部の損傷を考えると「激怒」していたことを認めている。彼が「外側扁桃体の刺激」によって鎮静化したときを除いて。彼らは、トーマスが最初、刺激を受けている最中は手術に同意したが、その後「誰かが自分の脳に破壊的な損傷を与えるという考え」に「激怒」した様子を描写している。マークとアービンは少なくとも2回このことを説明しており、最終的に損傷が与えられた後は、もはや病棟にとって危険な存在ではなくなったと誇らしげに主張している。彼らが言及していないのは、マサチューセッツ総合病院で脳に損傷を与えると脅されるまで、トーマス・Rは病棟ではおとなしく従順な人物だったと病院の記録に記されている点だ。
後年、トーマスは病棟で再び暴力を振るうようになる。誰かが電極で「脳を破壊」しようとしているのではないかと恐れたためだ。
マークとアービンは著書『暴力と脳』の中で、トーマス・Rが妻が隣家の男と不倫していると非難したため、彼を偏執狂だと表現している。妻がそれを否定した際に彼が抱いた病的な激怒についても言及している。入院中、患者の脳が針山になっている時に、妻が離婚を申し立て、病棟で彼に書類を送達し、間もなく「偏執狂」のトーマスが懸念していた男性と結婚したことについては、マークとアービンのどこにも触れていない。
彼の母親に宛てた手紙には、離婚のことと、複数の損傷に対する彼の「悪い反応」の両方が記されている。 1967年5月19日、彼は電極がすぐに抜けることを願っていたが、彼女の記録によると、電極が抜かれたのは1967年8月1日、つまり埋め込みから7か月以上も後のことだった。妻や子供たちに会うこともできなくなった彼は、1967年8月27日に母親の保護下に釈放され、彼女と共に西海岸に戻った。母親は、彼がその時、病弱で青白く、衰弱していたと述べている。
間もなく、彼は混乱しすぎて身の回りのこともできなくなっていることが明らかになり、近隣の都市で警察に保護され、入院した後、帰宅した。そして1967年11月20日、西海岸の退役軍人病院に入院した。人生で初めての精神科入院だった。彼は幻覚、妄想、混乱状態に陥り、人生で初めて閉鎖病棟と強力な薬物治療が必要となった。 6か月後に彼が退院した時、医師たちは依然としてマサチューセッツ総合病院の記録を入手できておらず、1968年5月22日の退院報告書に記されている彼の妄想における、真実の核心を理解していなかったようだ。
「……主訴は腰から下の麻痺。患者は、麻痺の原因はマサチューセッツ総合病院がマイクロ波で脳組織に損傷を与え、以前にも脳組織に電極を留置して彼を操作していたためだと述べた。彼らは彼を操作し、彼の気分や行動を操作し、彼の気分を高めたり低くしたりできると述べた。彼は約3か月前に、これらの医師の治療を受けていた東海岸を離れたようだ。」
彼は「統合失調症反応、妄想型」と診断された。これは、その後6年間、多くの病院で同様の診断を受ける最初の例であり、その後6年間、彼は慢性的な入院患者となった。
1968年8月、入院から9か月以上経った頃、医師たちは……マークとアービンは、この成功例に関する最初の輝かしい報告書を発表した。報告書では彼の才能に触れ、暴力行為とその治療法について記述したが、彼の運命については一言も触れていない。
1968年10月28日、退役軍人省は彼の生涯で初めて「完全な障害者」と認定し、その状態は今日まで続いている。1968年10月23日の入院により、彼の生涯における深刻な暴力行為と警察への関与の証拠が初めて明らかになった。病院職員の記録には「警察に逮捕。喧嘩に巻き込まれ、非常に衝動的」と記されている。別の記録では「感情の爆発」と記されている。彼はその後も州内の様々な病院に入院を繰り返し、常に脳が電極で破壊されていると訴え、マサチューセッツ総合病院への恐怖を訴えている。彼は常に幻覚、妄想、混乱に陥っており、仕事も身の回りのことも全くできない。マーク医師、アービン医師、スウィート医師は、病院や家族から頻繁に連絡を受けているため、当然ながらこの事実を知っている。患者自身も、マーク医師に自分の容態について頻繁に電話したがために、ある時期に閉鎖病棟に入れられてしまいました。
1970年、マーク医師とアービン医師はスウィート医師の協力を得て『暴力と脳』を出版した。この本には、トーマス・Rの症例を含む4件の精神外科手術の成功例の詳細な記録が収められており、その結論文は「手術から4年が経過しましたが、その間トーマスは一度も激怒していません」である。これらの報告書は、喧嘩で初めて警察に接触した時のことや、強い鎮静を必要とする感情の爆発について言及していないだけでなく、彼の精神病、完全障害、彼のマサチューセッツ総合病院への恐怖についても一切触れていない。
1971年2月18日、マーク医師は退役軍人省に書簡を送り、患者の完全障害の継続を求めた。退役軍人省はこれに同意したが、精神疾患が軍務に関連するというマーク医師の主張を否定した。
1971年10月8日、トーマス・Rは裁判所からは「無能力者」と宣告され、手術前は評判に違わぬ働きぶりを見せ、かつては優秀であったこの技術者は、母親の保護下に置かれてしまいました。それ以来、彼は病院と自宅を行き来しながら、保護下に置かれ続けている。
1971年7月21日から10月28日まで、トーマス・Rはボストンに戻り、2つの退役軍人省で継続的な診断評価と治療を受けた。病院でマーク、アービン、スウィートの同僚であるシャーウィン医師の診察を受け、マサチューセッツ総合病院への転院が再び検討された。家族によると、心配していたスタッフが介入し、転院を阻止したという。この入院中、彼の症状は手術に起因するものとされ、「それ以来、発作は起こっていないが、精神障害が進行し、最終的には統合失調症の徴候と症状が現れている」と記されている。数年にわたる多くの同様の報告と同様に、精神状態の検査では「最近の出来事と過去の記憶がやや損なわれており、初期の病歴の詳細は思い出せない。脳細胞がマイクロ波によって絶えず焼かれているためだと主張。」と記されている。
同年の1972年、マーク、アービン、スウィートは、全患者の追跡調査である『精神外科』という抄録を書き、トーマス・Rの暴力行為が治癒したと再び主張した。副作用として一時的な「インポテンス」のみを記載した。彼らは、部分的な失明、記憶障害、意識消失、錯乱といった、推定される数多くの副作用を省略しただけでなく、慢性精神病、長期入院、完全障害といった、より深刻な後遺症についても完全に省略した。
1972年8月9日、現在マークのプロジェクトの神経科医であるアイラ・シャーウィンは、デトロイトのラファイエット・クリニックの神経科医、アーネスト・ロダンからインタビューを受けた。ロダンは精神外科手術を支持しており、マーク、アービン、スウィートらの著書や論文で示された素晴らしい追跡調査結果に共感し、より詳しく知るためにやってきた。ロダンは、今回聞かされたことと、自分が読んだこととの相違に落胆した。特にシャーウィンは、『暴力と脳』などで誉めそやされた4人の患者で、暴力面やその他の点で手術によって実質的な改善が見られたのは1人もいなかった、とシャーウィンに告げた。彼はまた、トーマス・Rは「社会で機能することは決してできないだろう」とも認めた。この訪問に関するロダン氏の報告書は、引用文も含め、ミシガン州立病院における精神外科手術の差し止めを求める現在進行中の裁判の証拠資料 (AC4) として公文書として提出されている。ロダン氏は、この手術に深刻な幻滅を感じて病院を後にし、ホセ・デルガドを含むボストンやその他の地域の多くの人々も今では同様の思いを抱いていると主張している。
トーマス・Rは、1972年12月5日から1973年2月14日までの入院期間中、ますます深刻な暴力行為に走る傾向を見せていた。医師の署名入りの緊急入院証明書には、「患者は妄想性で暴力的である……本日、父親を身体的に攻撃した。看護師 (助け) に対して非常に攻撃的で、我々がマイクロ波で彼を破壊しようとしていると決めつけている」と記されている。カルテの最初の経過記録には、彼が「現在、非常に攻撃的で、好戦的で、危険」と記されている。拘束具とソラジンの筋注が彼に使用されている。
以前と同様に、今回の入院中も、彼はさらなる手術から身を守るため、新聞紙、バッグ、本など、頭に被ったり頭の周りに巻いたりして歩き回っていた。看護師の記録には、「マイクロ波で殺された」といった記述が数多く見られる。カルテには、患者の手書きのメモが添えられており、そこにはこう記されている。
「医師:私の脳への周波数を知るマサチューセッツ総合病院と研究所は、私に電波を送信し、脳内の有用な細胞をすべて殺して私の命を奪おうとしています。」
入院期間の終わりごろ、彼はデイルームの壁に「殺人」と書いて病棟全体を動揺させた。
1973年5月1日、フランク・アービンはロサンゼルスでフリーダム・マガジンのウィリアムソン・グッドの録音インタビューを受けた。強い圧力の中、アービンはついにトーマス・Rについて「彼は依然として非常に狂っており、私たちが会った時よりも少し狂っているかもしれない……発作はもう起こっていない。暴力ももうない」と認めた。
私は1973年5月4日、トーマス・Rの自宅でインタビューを行い、入院中ずっと述べられていたのと全く同じ状態であることがわかった。